「住まいづくり」考 家族像の不確かな時代に 共著 2002萌文社刊より抜粋

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<暮らしは文化>

 


曲がり角にある今の暮らし

  栄養ドリンク片手にエアコンの効いたオフィスでパソコンに向かい、運動不足はスポーツクラブやマッサージで解消。今日は中華、明日はフレンチと各国の料理を食べ歩き、休みは格安チケットで優雅に海外旅行。大統領のように働き、王様のように遊ぶ・・・。 一昔前までは夢物語だったようなことが、今や現実のものになりました。

 我々先進諸国に籍を置く者は、確かに物質的に恵まれた暮らしをしています。しかし、それが豊かな暮らしだとは実感できません。どうしてでしょうか。

 企業では次から次へと新しいものを産みださなけれはならない競争に次ぐ競争、家庭では降っては湧きでる新しいもの、珍しいものを追う、どこまでも次の刺激や欲望を求めて飽くことのない追い立てられるような暮らしだからです。

  私たちの廻りにはモノやサービスがあふれ、お金さえ払えばたいていのものは簡単に手に入れられます。誰もが手間ひまを惜しんで時間やお金を効率良く生み出して使おうとし、節度、良識、マナーといった人とのつながりよりも時間やお金、知識といった即物的に結果 につながる価値にスライドした暮らしを優先しているように思います。そして、多くの人や家族が目まぐるしく変わる社会に振り回され、新たな不満、不安、ストレスをかかえ、ゆがんでばらばらにされてしまった人間関係や社会に仕掛けられた競争に疲れ、将来に対しても希望を持てなくなっています。長い年月をかけて培われてきたてきた良い伝統、文化は薄れ、失われて、壊されてしまった家族が増えてきています。 そしてそんな今の社会の在り方に誰もが疑問を持つようになってきています。


ものを捨てない昔の暮らし。受け継ぎ、住みつぎの精神


  ほんの30年程前までは、できるだけ捨てない、モノを大切にした、使い回しの工夫に満ちた暮らしが当たり前にありました。手間暇を加えることで消費を最小限に押さえた暮らしを成り立たせる工夫をどの家庭も心がけていました。とてもエネルギーコンシャスでエコロジーな暮らしです。日々の暮らしのための家事の知恵、畳や衣類の虫干し、暮れの大掃除や正月の準備など、季節ごとの行事や冠婚葬祭などの生活技術、習慣は、生活の知恵として経験豊かな年配者の助言を求められていましたし、リタイアした時間のある年配者に頼られることがたくさんありました。また、手伝いとしての子供の役割も重要でした。こうして当たり前に親から子、孫へ受け継がれていたように思います。

  家についても、別の家に移っても使えるように畳や建具は地域によるモジュールが決まっていました。伝統的な木造の工法は痛んだ部分だけを取り換えることが簡単でしたし、家を建て直すのに古材の再利用も当たり前のことでした。簡単に壊さない、部材を再利用するということはただ節約するだけでなく、先達の仕事を知るという意味でも次の職人には学びの機会になったでしょうし、職人にとって仕事に対する自戒と緊張感を与えていたという意味でも技術の蓄積にとっても大切な役割をしていたと思います。


自然と共存、人間や生き物の生死に日常的に触れていた


  亜熱帯に住む私たちは、自然と対峙することなく協調しながら暮らしてきました。家の作りも、まず軒の深い屋根を掛けて雨と夏の直射日光を防ぎ、床を上げて湿気と冬の冷気を防いだら、あとは出来るだけ外部と一体となるように壁は殆どありません。外の自然の移ろいにあわせて建具の工夫で通 風、採光、室内気候をコントロールし 、移ろいを眺め、味わう暮らしをしてきました。自然と共存するということは、自然を読み込み活用する知恵が必要です。そんな工夫が家の作り、暮らしの形となって根づき、南北に長い日本ではそれぞれに特色のある地域性豊かな風土がありました。地場で調達できる木の文化(桶、箸、下駄 、木割りもしかり)、食材も同様、素材の持ち味を活かした季節感・素材を素直に味わう文化です。

 また、自然以外にも家畜を飼い、多世代で暮らさないと、隣近所と協力しないと暮らせない環境下では、人とのコミュニケーションの仕方や共働の仕方、生活技術の伝達を学ぶだけでなく、人や生き物が生まれ、育ち、病み、老い、死ぬ 過程と現実とをまざまざと見せてくれていたと思います。それは生きることとはどういうことかを考えさせてくれたでしょうし、命の重さを知らせてくれてもいたでしょう。人が病院で生まれ、病院で死ぬ ようになり、さらには、下水道が完備され、掃除やゴミ処理もらくになって、目の前から生き物が消え、消したいものがさっと消せるようになったことは、衛生的で便利な反面 、自分も他人も食べて排泄する生身の生き物だということ、またそのゆくえを忘れてしまいがちです。


受け継ぎ、改善・工夫し、伝えるー記憶をつなぐ


 このように、私たちが今忘れ去ろうとしている過去の暮らしにはたくさんの歴史的蓄積があります。それらの中には受け継ぎ、伝える価値や必要のあるものがたくさんあります。例えば、ふすまや障子などによるフレキシブルな空間の仕切り方、風呂敷や着物など、直線裁ちによる布のフレキシブルな利用の仕方、畳や建具などのシステム化された部品の扱い、江戸時代に代表される汚物利用、廃材利用などの循環型の暮らし、などです。

 洋風化、グローバル化を安易に追随するのでも否定するのでもなく、価値と役割を認識してうまく取り入れながら、独自の文化を育てていく・・・・。先代達の工夫や経験を記憶として重ね合わせて蓄積し、新しい時代の新しい技術を付け加えて改善、発達させて次代につなげて行くこと、が文化を繋げていくことだと思います。

 すまいが、地域が暮らしをつくり、文化・風土をつくります。 私たちの時代で途切れることなく、五感を大切にした豊かな文化、風土が受け継がれ、育っていって欲しいものです。


食事の意味、食の記憶


 食は暮らしの大切な文化です。 食べることは、生きる為、健康なからだを維持するために必要不可欠ですが、ありがたいことに一応平和で平等で、過ぎる程に食材に恵まれて暮らせる今日の私たちにとって、食事の一番の意味は一緒に食べることによる、心のつながりを求める相手との関係の積み重ねではないでしょうか。

 食べるという最も本能的な悦楽を共有し分かち合うことは、その相手との結びつきを深めます。 一緒に食事をとることが家族にとってなぜ大切かといえば、日々の暮らしで一緒に食卓を囲むことが家族のつながりを強くしていくからです。親しい人を表わすのに「同じ釜の飯を食べた仲」といった言い回しを使うことや、家族との思い出に食事の場面 を思い出すことが多いこともしかりです。そして「我が家の味、おふくろの味」は、一緒に食卓を囲み続けたことによる家族のつながりの結果 としての「食の記憶」です。一緒に食材を加工し、調理し、味わうことでそれぞれの家庭の味つけや独自の方法が生まれ受け継がれます。それは生活技術伝承の機会であり、何かの折りに自分を確認する機会にもなるものです。

 ところが現在の私たちの暮らしは食についても軽視しがち、商業主義に振り回されて本来あるべき姿を忘れがちです。個食(ひとりで摂る食事のこと)、コンビニ食が蔓延し、路上や公共空間で立って平気で食べる人を見かけるのも日常的になっています。食事の内容や機会を軽視してきたことによる子供の身心の成長、家族関係への弊害は今やあちこちで指摘されて久しくなりました。


豊かな暮らし、我が家の暮らし そのひとらしく よりどころの大切さ


 経済効率を優先し、煩わしい家族や近隣地域とのつながりを絶ち、全てのサービスをお金で買える暮らし・・・。とにかく、何もかもが便利に快適に効率的になり、何をするにも楽で簡単にはなりました。大量 生産、大量消費を目指した結果の「モノあまり」、人口環境に囲われた現在のくらしは、モノを安く簡単に手に入れられ、要らなくなれば捨て、建てては壊し、しんどいこと、煩わしいこと、見たくないもの、醜い、臭い、汚いものにはフタができます。

  肉体的な努力や工夫をしなくてもだれもが楽に日常を送れることは確かにありがたいことですが、反面 その仕組みや功罪を理解し、何が大切かを意識して、目まぐるしく変化する社会状況に振り回されない力、つまり、「選択する力」が求められます。マルチメディアの発達、インフォメーションテクノロジーの上手な活用はそれを応援してくれるでしょうが、自分をしっかり認識し、あふれる情報を自ら線引きしていくことが必要です。

 また、これから私たちが迎える「選択社会」にあっては、働き方を含めて会社や集団主義から開放された個人的な関係、心理的な人間関係へシフトされるように思います。

 そこでは「自分らしくある」こと、多くの経験と知識、節度と良識を持って「自立自律を心がける」こと、「自分のよりどころとなる信頼関係と自信をもつ」ことが必要でしょう。「選ぶ」ということは「選ばれない」ということでもあるわけですから、自分は自分と自ら線引きでき、自分らしくバランスをとれることが大事です。納得して相対的な価値の中で生き抜いていく覚悟や教育が必要だとも思います。

  豊かな暮らしとは、「よりどころを知り、足るを知る」ことのような気がします。          (木村真理子)

「住まいづくり」考 

家族像の不確かな時代に

共著 2002萌文社刊